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表紙集

「ほっちぽっち」自身も作ってた!

温故知新のグラフィティ

2003/07/15追加、以下4編

大名古屋回顧風景
'84/11


銭湯ルネッサンス
’85/06


堀川哀歌....運河に男
'85/10


東山動物園・五段活用
'86/07


良いデザインに囲まれたい
'89/01


湊町レビュー(名古屋港)
'84/09

番外編

『生活倉庫・コンセプトカタログ』

連絡事項、ご提案はこちらで
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田端(水谷)みゆき、による
ホッチポッチ(HP)を外部ライターの眼から回顧する・・・編
南部の記憶:南部からのつけたし)

第1期(グローバル時代)

私がHPと関わり始めたのは、83年5月の創刊号から。
当時は、東京の編集プロダクションが企画・編集をしていた。
駆け出しだった私に、子細な事情はわからなかったものの、
ユニー(スポンサー)→凸版印刷→編集プロダクションという発注経路だったと思う。
当時ユニーの社員で初代編集長だった村林さん、
発行人や編集長を歴任された足立さんがお詳しいはず。

東京で編集していたせいか、特集はほとんど地元名古屋と関係なく、
パリだのベルリンだの非常にグローバルであった。
名古屋のタウン誌なのに名古屋スタッフというのも妙だが、
私は凸版印刷の岡村ディレクターと共に、
東京の編集プロダクションサイドの名古屋スタッフ(支部?)だった。

南部の記憶:
多分、その3号目ぐらいが発行されたころ
僕は、ユニーの広告写真を撮っていた写真スタジオを辞め
いわゆるフリーに、つまり独立した
その時、当てもないのに、当てにした仕事が
この『ホッチポッチ』だった
そして、アプローチしたのが当時の東京側・編プロの武さん
彼女には、僕のプータロー時代の友人、あの『近藤房之助』が
仲介してくれた
もう一手、「ユニー時代のつて」を頼りに
名古屋サイド編集長の村林さんを訪ね
結局、両サイドからの仕事を少しづつ
させていただくことになった

当初、私たちは情報集めに東奔西走した。
ライブハウスやギャラリーなどなど。
まずHPの名前を認知してもらい、
毎月のスケジュールをいただけるよう根回しした。
その一方で、名古屋でのライブ記事やショップ紹介など原稿書きもさせていただいた。
広告のように「直し」が入らないこと、好きなように書けることが、
当時は猛烈に嬉しかった。

南部の記憶:
初めて、武さんサイドでした仕事は
当時、流行っていた『笑ってイイとも』風・友達リレーション、
その時に、出会ったのが『竹内正美、竹ちゃん』だった
二つ目の仕事が『ホイポイ』というバンドのデビューを追う取材
そこで『水谷みゆき』とはじめて仕事をしたのだった
最初の待ち合わせは、つい先日壊されてしまった
星が丘のミスド・・・・だった

第2期(名古屋観光時代)

東京の関係者が手を引き、名古屋の人々だけでの雑誌制作になった。
足立さんや村林さん(しばらくして殿村さんも加わる)、
ユニーサイドの名古屋スタッフの方々が中心となり、
フリーのライターやカメラマンなどがそこに集まった。
私にとっては、最も印象深い時代。
仕事の楽しさを知り、今に続く多くの信頼できる友達と出会った。

知られざる名古屋、掘り下げた観光案内。
ライターの馬場くん担当の特集も、私が担当した特集も、
そんな視点のものが多かった気がする。

南部の記憶:
その当時、ミユキチャンと南部、馬場くんと山口くんが
「班」のようになっていた
馬場くんとの最初の仕事は「銭湯ルネッサンス」
もう一つ、「自転車特集」というのも作った
バックナンバーを見返してみると
そのころの特集モデルには、ワキチャン=安田和喜子ばかり使っている
彼女の消息、東京へ行って、結婚したという噂の後は知らない
いずれにしても、その頃が
僕にとっても一番印象の強い時代、吉田君の時代だったとも、言える
吉田くんのお気に入りだったレベッカの「ノッコ」を
瀬戸線沿いの無人駅、小さなスタジオなど連れまわして撮影したり・・・
歌手デビューした今井美樹を白川公園で撮ったのも、多分?この頃
彼女がコマーシャルをやっていた
発売したてのホンダTODAY(初代)に乗って取材に行った
ウケタかどうかは、記憶にない

大名古屋回顧風景を始め、青空百貨店、R−60、
東山動物園など印象深い特集がいくつもある。
コピーライター&ディレクターの村島さんからのお声掛けで、
カメラマンの南部さんや山口さんと共に、
マンションのショウルーム作りをし、それを特集で紹介したりもした。

南部の記憶:
ちなみに「青空百貨店」、「R−60」特集では
ご当人のライター・水谷みゆきが
「表紙モデル」もやっている
「青空百貨店」では、アルミのカメラケースに乗った彼女が
覚王山・日泰寺の縁日、「オバ-チャン」人波の中でカメラに向かって手を振っていた
確かそのアイデア
僕は見ていないがユーミンの「水の中のアジア」だったとか?

『大名古屋回顧風景』は
僕にとって、特別印象に残るホッチポッチでの仕事だった
今となっては、何が「特別」だったか定かではないが
今も、「特別」な特集だ

『東山動物園・五段活用』は、田端君という
このサイトのヘッダー(上のタイトルバー)を作ってくれたデザイナー
今は、「ミユキチャン」のご主人でもある
現在、ゲラーデ舎というデザイン事務所を主宰し
そのウェブサイトには、上の方にリンクを設けておいた
その彼の『味』が、色濃く出てきた特集だと僕は思っている

村島さんは
ホッチポッチが名古屋制作にスイッチした時
スーツ姿の強面で、編集室に乗り込んできた二人のうちの、一人だった
マンションのショウルーム作りというのは
その彼が扱っていた、不動産広告の仕事を
ホッチポッチとのコラボレーションという形にしたものだった
それはそこそこの予算もあり、かなり、楽しませてもらった
文章は、水谷みゆき、と 村島旬、写真は南部と山口くんのコラボレーション
もし、リクエストがあったら復刻アップしてもいい、山口くんのご了解が必要だが
さきほど強面と書いたが
今では、僕の来るべき「葬儀委員長」を引き受けてもらうはずの友人!
彼も、特集で「主役を張っている」、それは『堀川哀歌・・・運河に男』
村島さんは運河に立つ男、文章は水谷みゆき

南部さんや編集の吉田くんと、
名古屋港や堀川をロケハンしながら企画を練っていったこと、
毎回デニーズで会議をしたこと、どれもとても懐かしい。
懐かしいといえば、当時の南部さんの手作り(?)スタジオも懐かしい。
床が白と黒のピータイルで、サンルームの雨音が心地よかった。

南部の記憶:
名古屋港特集は、悲しい思い出があったわけでもないのに
なんだか悲しい風景ばかり思い出す
当時の手作りスタジオは、表紙のロケーションにもなっていた。
'85の3月号だ
この特集では、当時僕の助手をしていた小池くんの部屋でも撮っている
ソニーから借りてきた、発売されたばかりのCDウォークマン
カチャ・カチャ、いじっているうちに壊してしまったこと・・・告白しておこう

前出の吉田くんとは音楽の趣味が合ったため、
好きなミュージシャンのインタビューがたくさんできたことも幸せだった。
「老後の楽しみに」と当時のインタビューテープは保管してあるが、
多分一生聴くことはないだろう。

第3期(音楽誌時代)

市川哲ちゃんが編集長に就任すると、HPは次第に音楽誌風になっていった。
さまざまなアーティストにファッショングラビアさせてみたり、
あちこちをナビゲートさせてみたり。

南部の記憶:
この時代で印象の強い記憶は、「宮沢りえ」かな?
この取材の後、見る見る人気は急上昇、そしてスキャンダル
セブン・ティーンのモデルをやっていたという彼女
さすがに撮り易かった

音楽担当の美里との筆談コラムページがあったせいか、
わたし的にはもっとも編集室に入り浸っていた時期かもしれない。
哲ちゃんと美里と大騒ぎして、大笑いして、いつも汗ばんでいた。
ディスコ特集も多く、イベントも企画され、夜遊びもよくした。

一番記憶に残っているのは、東京音楽事情と名古屋へんなものオムニバス。
哲ちゃん、美里、そしてカメラマンの小池くんと東京在住のアニー、
総勢5人で取材した東京では、美容師の一団と間違われたり、
道に迷って渋谷のホテルにもどれなくなったり(私だけか?)、
インクスティックでビートニクスのライヴを見たり、
修学旅行のごとくハイテンションな3日間だった。

第4期(ファッション誌時代)

サイズが小さくなったり大きくなったりしながら、
最終的にHPはファッション誌風タウン誌へと変化していった。
オオシマが編集長の頃である。
モデルに、ヘアーメイクやスタイリスト。
バブルの後押しもあって、最も華やかな時代だった。

南部の記憶:
甲斐真由美というモデル、村上由美子のヘアメイクで作った表紙は
面白い物があった
黒人メイク、港の倉庫街で撮ったり
このシリーズ最期のモノクロ・チュ−ルレース越しで撮った写真
しかし、この頃には取材からはもう離れており
現場の楽しさからは、味わえなくなってきていた

雑貨特集などで商品撮影も多かった。
短い商品コピーを書くのが大好きな私ゆえ、
また当時物欲に満ち満ちていた私ゆえ、
たくさんのモノの撮影立ち会いや原稿書きは本当に楽しかった。

が、オオシマが編集長を辞した頃から、
私とHPとのお付き合いもだんだんフェイドアウトしていく。
最終号まで仕事していたとつい最近まで思っていたのだが、
最後の方のHPはほとんど見覚えがなかった。

南部の記憶:
同じくである、僕にも記憶があまりない

なんていい加減な記憶。
となると、ここまで書いたことも結構曖昧なのか?

ココから南部が書いてます
時代は変わるのだ

そう、「ほっちぽっち」のバックナンバーを何冊かめくってみると
まったく、「時代は」変わるのだ
20年ほどの時を経たその雑誌、自分が撮った写真を見て
思う

「この20年、僕は何をやっていたのか?」